読書録:『痛くない死に方』


最近よく読んでいる、いわゆる「平穏死」に関する本。同じ著者の本をもう何冊も読んでいるので、基本的にはもう知っていることばかりなのだけれど。

冒頭で出てくるのは、あの大橋巨泉の例。2005年に見つかった胃がんは克服して復活、2013年にも中咽頭がんのステージ4であることが見つかったが辛い治療を乗り越えた。ところが2016年4月に在宅医療を始めた途端に体力が低下し、結局再び入院してそのまま7月には死去。死因はいろいろあれど、直接的には在宅医療で受けたモルヒネの過剰投与が失敗だったのではという。

この描写からの情報しかないのでどこまで鵜呑みにしていいのか分からないけれど、このケースでは、在宅医に医療用麻薬や在宅看取りに十分な技量が不足していたことが失敗だったのではというトーンになっている。

まさにうちの母を在宅医に依頼し、医療用麻薬の投与をお願いしている身としては、ちょっと心配になる話。在宅医を選ぶに当たっては、そういうことを調べている余裕もなく、一度断られていることもあり、ケアマネの紹介してくれた医師に「診てもらえるなら誰でも」的にお願いしちゃったという経緯があるので。

この本では、この話を冒頭に持ってくることで、巨泉さんほどあらゆる情報を勉強しつくして周到に準備したであろう人でも、「自宅で平穏死したい」という要望は叶えられなかった、それほど今の日本で平穏死することはむずかしいと言いたいようだ。

その後は、平穏死と安楽死の違い、平穏死を阻む要因、平穏死がいかに本人にとって一番苦痛の少ない死に方であるかというような話が続く。(このあたりは他の本でも読んだような内容)

ひとつ考えさせられたのは、平穏死を望んで在宅医療を望んでいたものの、自宅でお餅を喉につまらせて救急車を呼んでしまったという100歳の患者のエピソード。病院に搬送され、救命措置を受けた後、延命医療を施され植物人間のようになってしまったことで、家族が後悔する……というのだけれど、いくら100歳とはいえ、お餅を食べられるほどだったおじいさんが目の前で窒息死していくのをそのまま見ていることなんて、できないよねぇ。

と考えると、平穏死を望むというのは、きれいごとだけではない覚悟が家族にも要求されるんだなと身につまされる。

平穏死を望むかどうか、本来は本人の意思が一番尊重されるべきというのは正論だけど、今うちの両親にそれを聞くことは私にはできない。もっと病状が進んでいよいよ覚悟したようなことを言い出したら、それとなく聞くことができるのかなぁ。

その上で、いずれは在宅の先生ともその辺について話し合いをしておく必要はあるんだろうなと。幸い、メールで連絡するとすぐに返事をくれるのでコミュニケーションは取りやすそうな感じ。どんな経過をたどるか分からないけど、みんなが納得できる道が進めますようにと今は祈るばかり。

2017.05.21 | | コメント(2) | トラックバック(0) | 読書録



読書録:『「痴呆老人」は何を見ているか』


終末期医療に携わる医師が、いわゆる認知症になった老人たちの心理状態を解説した本。

脳の物質がどうのこうのというような生物的説明ではなく、人間としてどんな状態にあるのか、ということにスポットを当てられている。よくある「認知症の人はこうだから、こういう風に対応しましょう」的なものとも違って、冷静に分析しているという感じ。

そこで指摘されているのは、まわりとのつながりだ。

印象的だったのは、検査で同じような認知力の低下があっても、まわりの人との関係性によって、いわゆる困った行動が起きる割合には差があるということ。

私も父を見ていて、もし子供世帯の家族といっしょに住んでいるご隠居老人で、気をかけて面倒を見てくれる人が近くにいれば、ちょっとボケちゃったおじいさんという程度で、それほど困ることはないのになと思う。

そして、コミュニケーションというのは情報をやりとりするだけではなく、情動を交換するものでもあるという話。たとえば老人ホームでまったくかみ合わない会話をしている老人たちも、それなりに気持ちの共有があれば、立派なコミュニケーションが成立している、みたいな。呆けた人たちにとっては、話の内容を理解すること自体はあまり意味がなくて、なんとなく気持ちが伝わることが大事なのだというのは、勉強になった。

この本には、多重人格の話も出てくる。多重人格というのは誰にでも生まれたときには潜在的にあるもので、普通は成長と共に統合されていくのが、小さい頃に心的外傷があると、ある種の感覚や記憶を切り離そうとして人格の単一化が損なわれるのではないかと。

人は自分が「見たい」と思うものを見て、「聞きたい」と思うものを聞くというのも分かるような気がする。他の人には見えなくても、その人にとって見えていれば、それがその人にとっての真実。そういうことって、呆けてなくてもあるんじゃないのかな。「真実はひとつだけ」はコナンの世界だけってやつだ。

というように、なかなかに深い話で、そもそも「私」とは何かとか、考えるとどんどん分からなくなっていきそうな。分かったような分からないような部分もあったけれど、いわゆる呆けの状態をこんなにも真摯に見つめている点に、著者の終末期医療従事者としての経験と真剣さを感じる。

実際に呆けた親の世話に手を焼くようになったら、そんな悠長なことは言ってられないんだろうけどね。まだ心の余裕があるうちに読んでみておくのがよいのかも。

2017.05.15 | | コメント(0) | トラックバック(0) | 読書録



読書録:『わたしの容れもの』


小説家である角田光代のエッセイ。1967年生まれである著者が2012年~2014年頃に書いた連載らしいので、40代後半から50歳を前にして、迫り来る老いや更年期に向かいつつ、自らのカラダに起きる変化をユーモアたっぷりに綴ったもの。

友人やセンパイたちから聞くいろいろな話に怯えつつ、自分に訪れる変化にビビったり納得したりする様はリアル。私も最近友人たちとの会話は、その手の話が増えたもんなぁ。。

先日の旅行の際も、元気でこんな遠出ができるのは何歳までだろう?とか、近いところは年取ったときにとっておいて、今のうちに体力が必要なところは行っておかなくちゃとか、そんな話ばっかりしてたっけ。

でも、全体として悲観的というわけではなく、もう開き治って受け止めちゃいましょうという軽いノリ。まあ、そうでも思わなきゃやっていけないけどね。

この本でプチ役に立った?のは、角田さん、検査マニアなところがあって、いろいろなものの体験談が出てくる。大した意味もなく「やってみたくなっちゃう」のは物書きのサガなのかもしれないけれど(実際、本のネタになってるわけだし)。

たとえば、よく更年期障害対策に大豆製品が有効と言われるけれど、大豆製品を食べても体内で「エクオール」という成分を作れるかどうかは体質によって異なるのだという。つまりエクオールを作れる体質の人は、食べた大豆のイソフラボンが有効に摂取されて更年期障害が軽いなるという。で、そのエクオールを作れる体質かどうかは、ネットでキットを取り寄せて検査できるらしい。確率は50%で、分かったところでどうなるというものではないのだけれど、気になって調べてみたら、角田さんは作れない体質だったそうだ。

試しに検索してみたら、簡単に出てきた。料金は4000円ちょっと。興味本位でも出せる金額ってことかな。 
 

もうひとつは、遅延型アレルギー検査。原因不明の頭痛に悩んでいた友人が、この検査で実は乳製品にアレルギーがあることが分かり、それをやめたら頭痛がきれいサッパリ治ったという。遅延型というだけあって、食べてすぐに症状が出るわけじゃないから、普通だと気がつかないらしい。頭痛持ちの私としてはちょっと気になるところだけど、調べてみると検査キットが3万円とか出てきたので、うーむという感じ。

そうそう、健康と関係ない話で印象に残ったのは、昔の友だちに久しぶりに会ったときの話。パッと見ずいぶん変わったように思っても、少し話すと「全然変わらない」「昔のまま」と思うのは、ある程度親しくなった人を見るときは、外見じゃなくてその人の魂を見てるからだって。なるほどね。

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2017.05.08 | | コメント(0) | トラックバック(0) | 読書録



読書録:『大人のおしゃれ Do!&Don't』


1956年生まれの漫画家と1959年生まれのスタイリストが対談形式で語る「すっかり大人」な女性のおしゃれについてのアレコレ。

実際のオシャレについての細々したアドバイスは、まあありがちな話が多いけれど、描写がいいちいち「すっかり大人あるある」で苦笑。

夏のワンピースを死ぬまでに着られるのはせいぜい何回?とか、シワの顔にシワの服はNGとか、このとき!という勝負服を着る機会はなくても喪服の出番は増えるから、いざというとき入らないということがないように、ときどきサイズチェックはしておくべきとか。

カサカサしてくるお年頃、1に保湿、2に保湿、ずっと保湿だとか、「かたい、きつい、重い」と感じ始めたら「ファッション更年期」だとか。そういえば、先日の旅行中も、同じ年の友人Mが「重たいネックレスはぜったい無理!」と力説していたっけ。

そして、一番笑えたのは、「すっかり大人」はいつ何があるか分からないから、見られてもいい下着をつけておくべきという話。といっても男性に見せる下着じゃなくて、いつ救急隊員のお世話になるか分からないから! 救急車で運び込まれたときに、残念な下着では恥ずかしいというのだけれど、いやそんな場になったら下着とか恥ずかしがってる場合ではないような。

と、軽く笑い飛ばしながらさらっと読むには面白かったかな。

2017.05.07 | | コメント(0) | トラックバック(0) | 読書録



読書録:『週末介護』


ほんとうにもう、こんな本ばっかり読んで(苦笑)。

著者であるエッセイスト岸本葉子さんが日経新聞の夕刊に書いているコラムで、介護のことをちょっっとだけ書いていたので、読んでみた本。

彼女のエッセイは前にも何冊か読んだことがあるし、年齢にして1年上、スケール違いすぎるけど同じ自由業ということで多少親近感もあり。(と思ってたけど、改めて過去の読書録を読むとかなり辛口なことも書いていたので、「好き」というよりは、「名前を知っている人、本を読んだことある人」というレベルで、そんな人の介護ってどんなだろう?ということろに興味を持ったのかも)。

30代の頃に母親を「あっけなく」亡くした著者は、40代で自らが癌になり、それを乗り越えたと思ったら、父が認知症に。以後、姉と兄、3人で分担しながらの介護生活が始まる。

平日の昼間は姉、夜は兄、週末は著者という役割分担で過ごす介護生活。いろいろ細かな「大変なこと」「辛いこと」は書かれているけれど、穏やかな父親には愛情深く接し、兄弟3人が協力して……と、基本「美しい話」がベースとなっている。

あえて美化しているつもりはないだろうけど、終わったことをいい思い出にしたいという心理はあるのかなという印象。

いずれこういう日が来るのかなぁと身構えつつ読む身としては、正直こんな風に親に愛情を感じられるのかなと自信がない部分もあるし、なんせうちは姉と仲が悪いし、そして何より介護のアレコレは実際大変そうだなぁと、どよーんとしてしまう。

とはいえ、かなり細かく書かれている日常のいろいろは(介護する側の心の動きも含めて)、そういう日々を想像する上で具体的に参考になることも多く、介護の日々の「予習」としては勉強になったかなと思う。

それにしても、ここ1年ぐらいで、いったい何人の「親の看取り」に立ち会ったことか(もちろん文面から)。ケースバイケースでもあり、共通する部分もありだけど、「本番」を体験する前に、そういうものを見ておくのは悪くないよね。

余談になるけれど、同じ著者が『二人の親を見送って』という本も出しているので、気になってAmazonをのぞいてみたら、書評の評判が悪い。その理由は「タイトルと中身が違う」。どうやら、親を見送った後の自分の生活についてのことがほとんどで、直接介護や看取りには関係のないことが書かれているらしい。書評で怒ってる人は、「親を見送るってことがどんなことか」が知りたかったわけで、え~?と思ってしまったと。知らずに読んだらきっと私もそう思ったから、罪なタイトルだ。でも、まさにこのタイトルにふさわしい内容を読みたいという人は、やはりたくさんいるんだろうなとちょっと安心?したりして。


2017.04.07 | | コメント(0) | トラックバック(0) | 読書録



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