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読書録:『人魚の眠る家』


同タイトルで最近映画化された作品の原作。映画の予告編をテレビで見て、原作者は東野圭吾だというので読んでみた。

テーマは子供の脳死と臓器移植。重たい話だ。でも、個人的には私が今までに読んだ東野圭吾の作品の中でも、ベスト3に入るぐらい良かった。

主人公薫子の娘が、ある日プールで溺れて「ほぼ脳死」状態に。一度は臓器移植の方向で考えたものの、娘の指がピクリと動いたことで撤回する。夫(子供の父親)がIT企業を経営しており、そこでIT機器を使って身障者の日常生活をサポートするという研究をしていたことから、娘にもハイテク技術を駆使する実験をすることになり、薫子の献身的な介護生活が始まる。

IT機器の操作で少しずつ体も動かせるようになり、その影響か次第に健康状態も安定していく。そんな月日に希望と幸せを感じる母の薫子。

とはいえ、生命維持の機能が保たれているというだけで、意識はない。それでも体は成長を続ける。まるでずっと眠っているかのように。第三者から見れば、それは「死体を電気じかけで動かしている」と「気味の悪い」行為に映る。狂気的にのめり込んでいく薫子と、何も言えずに巻き込まれていく家族。そして、ついにある日その思いが衝突して事件が起きる……。

物語では、心臓病を患い、海外での移植を目指し募金を募る少女の話も出てくる。資金が集まる寸前に、その少女の命は尽きてしまう。国内で移植が受けられれば助かったかもしれない命。日本では子供の臓器移植が法的には可能になったものの、それに同意する親はほとんどいないという現実が突きつけられる。

移植を待つ側、提供する側、どちらの親の気持ちも痛いほど分かるだけに、辛い。

この小説では、その子供の臓器移植という問題を取り上げて、脳死の定義の問題や、そもそも死とはなんなのか?、何を以て死というのか?という問いを投げかける。

もちろん正解などない。「人生は論理的には生きられない」「世の中には意思統一をはかれない、むしろはからないほうがいい問題もある」というセリフが印象に残った。

ところで、生きているってどういことなのか、という問題は、私自身もここ数年、親の老いを見届けながら、終末医療などについて調べたりして、ずっと考えてきた問題だ。でも、もう十分に生きた老人と、ある日突然そういう状況になった小さな子どもでは、やはり全然違う。可能性はないと分かっていても諦めきれない親の気持ちは、もっともだと思うし。

映画は見てないけど、ネットであらすじを見る限り、一部カットされているものの、ほぼ原作に忠実に作られている風。本でも泣きそうになったから、映像でみたら、泣いちゃうだろうね。

2018.12.02 | | コメント(0) | トラックバック(0) | 読書録



読書録:『人間の死に方 医者だった父の、多くを望まない最期』


最近こんな本ばっかりだ(苦笑)。

最近読んだ『老乱』(読書録はこちら)『悪医』(読書録はこちら)の作者が、自分の父親を看取ったときのことを書いたエッセイ。

著者は現役の医師をしながら文筆活動をしているのだけれど、サブタイトルにあるように、著者の父親も医者だったらしい(ついでにいうとその父=祖父もということで医者一家)。その父は、若い頃から競争が嫌いで、「先手必敗」がポリシーという、ひょうひょうとした人だったとのこと。

現役時代は麻酔医で、手術に立ち会う事が多く、直接患者の主治医になることは少なかったようだ。自分自身は「医療嫌い」で、検査も治療も極力受けない主義。「ストレスが一番の敵」が信念で、下手に検査なんかすると心配になる→健康に良くないとうそぶく。著者いわく「医者の不養生」を通り越して「医者ニヒリスト」。

糖尿病になるも、治療をせずにほったらかし。悪化してからもインシュリンの自己注射をしながら甘い物食べ放題。合併症で足の指が壊死するも自然治癒させてしまったという。その割り切りっぷりに、著者はあきれつつも「あっぱれ」的な目線で見ている。医者故に医療のできることには限界があると知っていて、悪化したり早死してもあきらめるという強い覚悟があったからだろうと。

85歳で前立腺がんと診断されたときには「これで長生きしなくてすむ!」と喜び、もちろん治療などはせずに結局87歳で平穏死をとげる。(87歳は十分な長生きだよ)

晩年は同居して、母や妻とともに介護にもあたった著者。自身も医者である手前、父のそんな態度を自慢したり勧めたりすることはできないと断りつつも、ひとりの人間の生き方、死に方として提示することで、問題提起したかったんだと思う。

末尾に、祖父や祖母など他の家族や親族の死に方にも触れられている。中には、もうやめておけばいいのに切に思うような延命治療をした結果、退院して7ヶ月も穏やかに暮らせたという例も紹介されているし、延命治療を全面的に否定するものではないようだけれど、それでも、、と続く最終章は「平穏な死はむずかしくない」として、平穏死を支持する考えを書いている。

平穏死については、今までもいろいろな本を読んできたけれど、自身も在宅訪問医として多くの終末期の患者を看取ってきた職業上の経験に加えて、家族として身近に寄り添った実体験から語られる言葉には説得力がある。

印象的だったのは、平穏死を不可能にする最大の要因は家族であると主張していること。これは、先日の長尾先生の講演会でも言っていたこと。むしろ身寄りのいない「おひとりさま」のほうがそういう意味ではスムーズだと。邪魔する人がいないから。

以下、引用。
「家族が死にゆく人に最大限の治療を求めるのは、相手に対する愛情であり、慈しみであると思うかもしれないが、実際は大切な身内と別れたくないという感情に、家族が支配されているだけのことが多い。終末期医療の現場で、何度もそんな場面に立ち会っているとよくわかる。」

その上で、「家族を失う悲しみを小さくするには、心の準備」という。それを避けていて突然その状況に遭遇するから、うろたえて動揺してしまうのだと。

著者の父親の平穏死を可能にしたのは、現実的には身内に医師がいていろいろな世話ができたことが大きいけれど、それよりも根本的な問題として、父親自身が「あるがままを受け入れる」という考え方だったこと、家族もそれを尊重していたことだと振り返る。

永遠に会えなくなるというお別れは寂しいけれど、いつかかならず来るものと覚悟して、それを静かに見送ってあげる。それが家族のしてあげられる一番のこと。

同じ家族でも、まだずっと一緒にいられると思っている若いうちのお別れはそんなふうには思えないだろうけど、年老いた親に対しては、早かれ、遅かれの問題だものね。


2018.11.23 | | コメント(0) | トラックバック(0) | 読書録



読書録:『投資なんかおやめなさい』


テレビや雑誌でおなじみの経済評論家である荻原博子さんの本。

「老後のためには投資が必要」と半ば脅されて、勧められるままに安易に投資をしてしまう「素人」に警笛を鳴らす本。

目次はこんな感じ。
第1章:あなたは、騙されていませんか?
第2章:日銀の「マイナス金利」が、家計の資産を破壊する
第3章:こんなクズ商品には手を出すな
第4章:なぜ「個人年金」はダメか
第5章:投資の「常識」を疑おう

要するに、知識のない人が、手間を惜しんで、担当者任せに買ったところで儲かるわけはないと断言。経済の流れがどうなるか、儲かるか損をするかは未知数だけど、ただひとつ確実なのは、きちんきちんと手数料が取られていくということ。

金融機関が儲かるようにできているのだから、そんな簡単に儲かるわけはないのだよと。

特に、最近は銀行が危機的状況にある中で、必死に稼ごうと「安全に見せかけた」商品を強力にセールスしてくるから気をつけなさいと。証券会社はハードルが高いと思うような素人は、「銀行なら安心」と安易に乗っかってしまうのもキケン。

アマゾンのレビューを読むと、一刀両断に投資を否定する内容には批判的なコメントも多い。でも、コレを読んで「数字の示し方がおかしい」とか、その他揚げ足を取れるほどに知識のある人は、投資をする資格のある人なんだろう(と、おそらく著者もそう反応するような気がする)。

これを読んで、素直に「そうかー」と思っちゃうような私のような人は、「投資なんか、おやめなさい」というのが、最大のメッセージなんだと思う。

つまり、投資で儲ける人は当然いるけれど、それには知識や手間が不可欠。あるいはギャンブル感を味わいたいというなら別として、「インフレで目減りするから」などと心配してよくわからないリスクをとって元本割れするぐらいなら、たとえ利息は殆どつかなくても地道に貯金しておいたほうが、ずっとマシだよと。

はっきり言って金融業界を敵に回すような内容なので、今後業界からのタイアップ的な仕事はもう回ってこないだろう(笑)。それを覚悟で書いた勇気は評価したいと思う。

「貯蓄から投資へ」と言われて、よくわかんないけど心配してる人には、こうやってバッサリ「おやめなさい」と言ってくれるのは、わかりやすくていいと思うよ!

2018.11.21 | | コメント(0) | トラックバック(0) | 読書録



読書録:『賢い患者』


ささえあい医療人権センターCOML」という認定NPOの理事長を務める女性が書いた本。

COMLとは、”患者側の立場からよりよい医療を目指すための活動を行う団体”だそうだ。この団体が設立された1990年代は、患者に十分な情報が提供されずに「まな板の上の鯉」で言われるままに治療を受けざるを得なかったという時代。今ではインフォームドコンセントも当たり前となったけれど、未だに医師や病院に不信感を持つ患者は多い。

これを解消するためには、医療側の改革も不可欠だけれど、患者の側にもできることがあるのではないか。自分の病気と真正面から向き合い、主役として治療を受けていこうという覚悟を持つこと。そのためにはどうしたら良いのかという情報を発信しているという。

著者自身が20代でガンになったときの体験、COMLが受けた電話相談の事例を紹介した後、「医者にかかる10箇条」を解説。さらに、模擬患者として医師のコミュニケーションスキルアップに関わっている試みや、患者目線で病院をチェックして改革に協力している話なども出てくる。最後は、初代の理事を務めた女性がガンが見つかって亡くなるまでの間を「キーパーソン」として支えた体験談で終わる。

印象に残ったのは、医師と患者では、同じ言葉でも捉え方にそもそも違いがあるという例として、「この抗ガン剤は割とよく効く」といった場合、患者としては「7~8割ぐらいは消えるんだろう」と受け取るけれど、医師の常識としては「3割ぐらいは小さくなる」を想定しているという。その違いに気づかないままでいると、いざというときに「話が違う」となってしまう。

以前、義父が肺ガンの手術をしたときも、手術後の説明で合併症が起こるリスクについて、私が代理で聞いた手前はっきり確認しなくちゃと「何%ぐらい?」と突っ込んでみたら、その数字が想定より大きくてえっと思った記憶。具体的には覚えてないけど、最初に「合併症があるかもしれない」といった口ぶりから受けた印象より、その数字がずいぶん大きかったのは覚えてる。そういうことなのよね。

ネットとかで不確かな情報を仕入れて暴走しちゃうのはまずいと思うけど、やはり患者の側でもできる範囲の勉強はして、聞くべきことを整理してしっかり確認しておくっていうのは必要なんだなぁと思う。自分自身のことはなかなか難しくても、家族としてはそこが頑張りどころなのかも。

たまたま、先日読んだ『悪意』という小説でも、患者と医師との認識の違いがテーマだった(読書録はこちら)。先日の終末医療の講演会でも、平穏死を迎えるためには患者側の確固たる意思表示が必要という話だった。いずれにしろ、医師にお任せじゃだめということなんだ。医師にもいろいろいるしね。

2018.11.18 | | コメント(0) | トラックバック(0) | 読書録



読書録:『悪医』


認知症の症状が進んでいく様子を、患者本人の目線で描いた『老乱』という本がなかなか良かったので(そのときの読書録はこちら)、同じ作者の作品を読んでみた。

この作品は、末期がんの52歳の男性が「もう治療法がない」と主治医に告げられるところから始まる。初期の胃がんが見つかり手術したものの再発、以来続けてきた抗がん剤の治療も限界となり、「このまま続けてもむしろ寿命を縮めるだけだから、治療をやめて残りの時間を有意義に過ごしたほうがいい」と言われる。

医師としては「患者のため」を思って善意から出たこの言葉に、患者は「そのまま死ねというのか!」と激怒し、病院を飛び出ししまう。

その後、この医師と患者、それぞれの目線での描写が交互に続いていく。

諦めきれない患者は、権威のある大学病院の門を叩いてみたり、マスコミでもてはやされている「抗がん剤専門医」、高額な医療費のかかる免疫細胞療法のクリニックなどにすがる。

一方の医師は、「自分は間違ってない」と信じつつも、このことが気にかかっている。この患者だけでなく、医師のもとを訪れる他の患者からも、「普通は面と向かってこんなこと言えないよね」と思うような、本音の鋭い言葉が浴びせられる。

医師が言う内容は正論だとしても、それをそのまま言っただけでは「突き放された」と感じ、患者は絶望してしまう。自分の命と向き合う患者にとっては、1%でも可能性があるならそれにすがりたいと思ったり、何もせずにただ死を待つだけというのは耐えられないという気持ちもよく分かる。

私の母が抗がん剤をやめるときも、私自身は「90年近く生きたんだし、もういいじゃん」とアッサリ考えていたけれど、母本人にとっては、やっぱり葛藤はあったと思う。本音としては続けていきたかったけど(母の場合は本人が副作用で苦しんでいたわけでもないし)、続けるには東京の病院に通わなくてはならず、それは無理だから仕方ないわね、ということで諦めたんだと思う。

抗がん剤をやめてからも、「でも、突然がんが全部消えちゃう人もときどきいるのよね」なんて言ってたから、やっぱり「奇跡」を願う気持ちはずっと持っていたのかもしれない。まして、まだ若い患者だったら、そう簡単に受け入れることはできないと思う。

この作品では、医師と患者、両方の立場を主人公にすることで、単純にいい悪いではない、この問題の難しさを考えさせられる。

治療をやめるというだけではなく、その後の心身のケアへのつなぎ方が重要なのだと思う。それを担うのが緩和病院、いわゆるホスピスなわけだけど、現実には、手術から担当している外科医はその知識はあまりないから、病院内の担当部署に相談に行けと言うだけ。

治療をしない=自分の担当ではなくなるわけで、もう関心がない。治らない患者よりも、治る患者に時間や手間をかけたいという論理も理解はできる。治療を待っている患者はたくさんいるのだから。

でも、今まで命をあずけてすがってきた患者にしてみれば、いきなり見放されるのは辛い。うちの母も、ずっと主治医のことを「あの野郎」呼ばわりして(笑)、恨んでた。そこのところを、もう少しスムーズに患者の心理的負担を考慮した形で、治療中も治療終了後も継続して支えてくれる存在があるとずいぶん違うのかなぁと思う。

というようなことを考えさせられるので、医者にも、患者にも、両方読んでみてほしいと思います。


2018.11.12 | | コメント(0) | トラックバック(0) | 読書録



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