生への執着

昨日見かけた記事。

救命医療を回避する~「これでよかったのだろうか」~

救急救命センターに搬送されてきた78歳の患者の救命医療をどうするかという話。例に出てきたのは、救命医療を行っても、人工呼吸器を外せる確率は60%。しなければ数日の命だけど、本人が苦しむことはないという状況。

本人にもなんとなく確認をとる時間もあり、家族にも相談した結果、この医師は「しない」を選んだ。このケースでは家族も納得して丸く収まったようだけれど、あとから別の家族に責められる可能性もあった。本当にこれでよかったのかどうか自信はない、というような話。

この記事では、「命を救う」ために研鑽を積んできた医師が、あえて「刀を抜かない」とう選択をする辛さについても触れられている。

最近「無駄な」延命医療が問題になっている。医療費の問題、家族の負担だけでなく、本人にとっても苦痛を強いているという現状。そういう話を聞くたびに、自分や自分の親には無駄な延命をしたくない、と思う。

でも。

今回、母のガンが見つかり治療法を選択するという事態を体験してみると、やっぱり延命を諦めるというのはむずかしい決断だなと思う。

すごーく昔に、柳田邦夫の『犠牲(サクリファイス)―わが息子・脳死の11日 (文春文庫)』という本を読んで、とても考えさせられたのを思い出す。医療ジャーナリストとしてたくさんの事例に関わってきた著者が、息子の死という「二人称の死」に直面したときに、今までの知識や経験では予想もできなかったような感情に苦しんだという話だ。

私にとって母は「二人称」というほどは近くないけど、三人称とも言い切れない、「2.5人称」ぐらい?

もう高齢だからと「いずれ」というのを私は覚悟していたけれど、現状の母は、漠然と「もうすぐ90歳の老人」ということで私がイメージするよりも、はるかに生への執着が強いということを感じるのだ。

今まで大病もせず、年の割には気も若くて元気という自信はあっただろう。今回のことでは子供たちの世話になっているけど、ついこの前までは、年寄りの夫婦ふたりだけで何でもできた。好奇心もいっぱいで、やりたいこともまだあるんだと思う。だから、自分でも、この先がそんなに長くないということは頭では分かっていても、まだ心身で実感するほどは弱ってなかっただけに、具体的に「そのとき」が迫ってることを初めて感じて、動揺してるんだと思う。

それに比べて父の方は、母と同じ年だけれど、一日自分の部屋に座ってテレビを観たり囲碁をうつぐらいの毎日で友だちもいない。「東京五輪まで生きようなて図々しい」というのが口癖で、「もうそろそろ、いいよ」という思いがありそうだ。母の病気の話になると決まって「なんたって、もう年が年なんだから」というような発言をする。

つまり、父にしてみれば、この年になって「そんなこと」で大騒ぎしている母の気持ちが理解できないんだと思う。ボケ以前の問題として。「寿命なんだからあきらめなさい」みたいな。だから、母を哀れむというよりは「いい年してみっともない」とも思っているのかも。

考えてみれば、母がいなくなったら困る、寂しくなるのは誰よりも父であるはずだけど、そのことはもう淡々と受け止めるしかないと諦観しているのかもしれない。

それなのに母の方が先に病気になるなんて、なんとも皮肉なこと。母なんて、父が先にいなくなったら「ほっとしたわ」なんて言いそうなのに。

思う通りにいかないのが、人生ってことね。

2016.06.05 | | コメント(0) | トラックバック(0) | 母の入院



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